創立70周年記念式典

平成30年7月7日(土) 宮城県PTA連合会創立70周年記念式典並びに第14回単位PTA会長会が開催され、会場のホテル松島大観荘は約350名の子どもたちの幸せを願うPTA関係者の熱気にあふれました。

70年前、戦後間もない昭和23年に創立された宮城県PTA連合会。

「生きていくことでさえ困難な時代に子どもの教育や環境の整備に尽力し、この組織を立ち上げた諸先輩方の高い志と努力に敬意を表し、震災直後の混乱期を乗り越えた我々もまた同じDNAを持っているのかもしれない。そして、我々はこのDNAを次の世代へ繋げていく責任がある」

開会のことばで、杉山昌行会長はこのように宮城県PTA連合会の歴史と時代背景を振り返りながら、PTA活動の大きな意義を述べた。

続いて、歴代会長、歴代事務局長への感謝状贈呈。

宮城県知事 村井 嘉浩様、宮城県議会議長 中島 源陽様からご祝辞をいただきました。

アトラクションとして仙台市出身の津軽三味線奏者、浅野 祥氏が登場。迫力のある三味線の音色に会場は包まれました。現在、28歳の浅野氏は20年前の50周年記念式典でも演奏されており、来場者は驚きとともに年月の刻みを強く感じた様子でした。

佐野 祥氏 プロフィール          1990年宮城県仙台市生。仙台一校・慶應義塾大学卒。5歳で津軽三味線をはじめ、7歳で津軽三味線全国大会に最年少で出場。翌年から最年少記録を次々と塗り替え、殿堂入りを果たす。

閉会宣言では、永沼昌一副会長から『教育の道は家庭の教えで芽を出し、学校の教えで花が咲き、世間の教えで実が成る』という正に家庭・地域・学校の連携を巧みに表現したことわざをご紹介いただきました。これは明治31年に埼玉県の幡羅小学校が保護者に配布した『家庭心得』の一部です。

記念講演では「小よく大を制す ~子どもの夢のあとおし~」と題して元小結 舞の海秀平氏に講演いただきました。「子どもたちのなかには、夢を見つけられずに困っている子どもたちもいると思いますが、いつも好奇心を持って生きることを大切にしてほしい」と冒頭で話されると、地元青森の中学で相撲を始め、高校・大学時代における恩師との出会いや、力士になったきっかけ、新弟子検査での苦労話などをユーモアたっぷりに、相撲の歴史やしきたりなども交えて講演くださいました。

舞の海秀平氏 プロフィール 1968年2月17日生、青森県鰺ヶ沢町出身。日本大学経済学部卒。山形県の高校教師に内定していたが、夢をかなえるため周囲の反対を押し切り大相撲の道へ進む。最高位は東小結。力士では小柄な体格で大活躍し「平成の牛若丸」「技のデパート」と呼ばれる人気力士となる。

また、宮城県PTA連合会70周年記念事業といたしまして、

~ 歴代会長座談会「PTA活性化のために」 ~

が開かれました。

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宮城県PTA連合会設立七十周年記念事業

歴代会長座談会『PTA活性化のために』

提言者:高橋 定光  第二十四代会長 (平成二十年~二十一年)

小平 英俊  第二十五代会長 (平成二十二年)

奈須 野毅  第二十六代会長 (平成二十三年~二十四年)

佐々木賢司  第二十七代会長 (平成二十五年)

高城 裕行  第二十八代会長 (平成二十六年s二十七年)

司会者:菊田 篤   第二十九代会長 (平成二十八年S二十九年)

宮城県PTA連合会10年のあゆみ

〇菊田 本日は高橋会長、それから小平会長、奈須野会長、佐々木会長、そして高城会長、ありがとうございます。

開催するに当たって、ぜひ進行にご協力をいただいて、短い時間ですが、皆さんの経験を今後に生かせるように、お話をうかがえればと思いますので、どうぞ今日はよろしくお願いしたいと思います。

〇菊田 この十年間の活動を振り返ってということと、二つ目のテーマ「PTA活性化のために」ということでお話をしていただきたいと思います。それでは、早速二十四代会長の高橋会長から日Pみやぎ大会を中心にお話をよろしくお願いします。

『十年間の活動を振り返って」

第一章

〇高橋 平成二十一年八月二十一日から二十二日の二日間、レセプションが前日に開催されましたので、計三日間の日程で、第五十七回日本PTA全国研究大会みやぎ大会が開催されました。

全国大会を宮城県で開催されることが、平成十六年十月の日Pの会議で決まりましたので、約五年間の準備期間がありました。平成十六年の十月に日Pで決まって、十二月には県Pとしては第一期事業計画委員会、通称「プロジェクト」と呼んでいましたけれども、「プロジェクト」のメンバー七人を募り、スタートしました。そのメンバーに私も平成二十一年のときはまだ子どもがいるということもあって選ばれましたので、最初からずっと関わっていたという次第です。

みやぎ大会の場合は、レセプションの会場、分科会の十一会場、全大会の会場と、全部で十三会場の分散型の広域開催というのが特徴でした。それまでは、メインの会場があってそこでまとめて開催されるというのが一般的だったのですが、分散型の広域開催ということで全国大会としては大変珍しいスタイルでした。それだけに会議回数なども大変多くて、苦労したことを思い出します。県Pの本部役員で物事を決めて、それを各地区に指示して開催するという方法が簡単ではないかという声もあったのですが、大会後に得る成果がそうやると少なくなるのではないかということで、こういう手法をとったわけです。

開催地の希望をとったとき、どこも希望しなかったらどうしようかという心配はありましたけれども、開催地の希望をとりましたら、皆さん手を挙げていただきまして、十三地区の実行委員会を組織することができたということで、いけるという手応えを、そのとき感じました。

しかし、そうは言っても全国大会ですので、お金のことやいろんなことがありました。その中で県Pがすごいと思ったのは、二十一年のPTA会員の人たちに負担をさせるのではなくて、もう今からお金の捻出をしましょうという声が上がり、書き損じ、未使用はがき協力支援ということで、一年間に一人一枚、四年間出すという運動をしました。それから、年間一人五十円ずつの協力金を出し合って、それも四年間積み立てをしました。この二つの支援は最終的にはかなり大会当年にとっては大きい資金になったと思います。

もちろん、県P側としては「日Pみやぎ便り」というのを平成十七年四月から発行し始めまして、「今こういうことをやっていますよ」とか、「こういう内容になりますよ」ということを会員の方にお知らせするという努力もしましたので、そういうような情報の共有が今振り返ってみると効果的だったんだなと思います。

最終的には、約八千人弱の参加があり、宮城県Pのスタッフとして、一,七四〇名が関わったという記録が残っていますので、スタッフというか裏方としてこんなにも多くの県Pの会員の方に協力してもらったというのも、すごいことだなんて思います。

振り返ってみますと、誰かにやらされている大会とか活動ではなくて、みずから関わって一つの大きな事業を成し遂げたことにより、大きな自信となって、大会終了後はそれぞれが地域に戻って、その自信をもとにPTAや、地域活動に入っていったということですので、とても意義のある大会だったと思います。

実際には実行委員長でありました小平会長が一番苦労したのではないかなと思いますので、その辺の話を今度は小平会長からしていただければと思いますので、よろしくお願いします。

〇菊田 日P大会のお話ということで、ご苦労とか、大会の成果とか、お話をいただきました。高橋会長の流れを受けて、では小平会長のほうからお話をお願いしたいと思います。

〇小平 日P大会は、平成十六年にやることが決まって、第一期のメンバーの中には定光会長さんも入ってやられていたわけですが、私はそのころ単Pの会長で、「日P大会やるよ」というような話だけは聞いていましたけれども、私が直接県Pで関わるというようなことはなくて、たしか一回目の単P会長会、松島の大観荘であったかと思いますが、そのときに初めてそういう大会があるというのを知ったような状況でした。

その後、平成十八年に市P連の会長になって、県Pの理事ということでお世話になるようになりまして、そのころには二期の大会の実行委員の引き継ぎがなされたかと思います。そのときは「Mプロ」と呼んでいたと思いますけれども、その「Mプロ」の中には、私の地元の名取からは櫻井さんが入って、私は間接的に聞いているような状態でした。

途中から関わったということもありますので、そのころにはもう既に「向き合おう! まっすぐに語り合おう! 未来の子どものために」という大会スローガンと、シンボルマークも選定をされていまして、当然大会の基本方針とか、理念なんかは先輩方が全部用意をしてくれていましたので、私は引き継いだ形です。定光会長さんが県Pの会長になるということで、たまたまそのときの日P大会実行委員会の規約で県Pの副会長が大会の実行委員長をやるという規定の関係で定先さんが会長になるため、実行委員長はそのまま引き受けられないということで、副会長の私がその後を継ぐことになりました。

そんな経過もあって、大会の骨組みのところは先輩方がしっかりつくってくれて、大会をやるその年だけでなく、その前から一人当たり五十円と、書き損じはがき集めといった活動を通して会員全員が関わるような大会運営をしていただいていたので、引き継いだ後はある意味事務的にどうやって大会成功に準備を進めていくかというあたりがメインになったような気がします。

実は私は、名取の特別第二分科会の副実行委員長をやっていまして、定光会長さんから全体の実行委員長を引き継いだときに、地元の名取からは、「県Pに専念しろ」ということも言ってもらえて、そういう意味で仲間にはすごく恵まれた大会だったと思います。

当然、各実行委員会の総会とか、事あるごとに足を運んではいましたけれども、最後の最後、二十一年に入ってから、準備がほとんどできていないというような分科会が一つありました。四月くらいだったと思いますが、その実行委員会に県Pとして進捗状況の話をしに行ったら、お互いがけんか腰になったり、「いやこれはどうしたものかな」という状況で、そこからほとんど毎日のように広報部長の賢司会長や、施設部長の長弥副実行委員長さんなどと、分科会の実行委員会に行って、説得というか、『一緒にやりましょう』という話をしたのを覚えています。

最初は、けんか腰の会議で、話し合いも物別れになって帰ってくるだけといような状況でしたが、何回も一緒に話をするうちに、向こうのほうも「自分たちがやっぱりやらなきゃだめなんだ」という思いになってくれて、そこの実行委員会も結束が固くなりまして、当日はすごくいい大会になったのを覚えています。

実は、その後反省会にも呼ばれて、終わった後のOB会にも来てくれということで、最初のころに全然受け付けてもらえなかったのがうそのように、大会が終わった後は昔から知っている仲間のような、そんな関係がつくられたのを覚えています。

よく大会の会議に、事務局長の玉田先生が「記録じゃなくて記憶に残る大会」ということをいつも言っていましたが、自分たちがやって良かったという記憶に残すことができたので、非常にいい大会だったと思います。

東日本大震災についても語るということですけれども、私が会長の年の三月十一日に東日本大震災が起きまして、自分も被災したというのもありますが、私が公務員だったものですから、その日からずっと職場に泊まり込みになってしまいまして、会長代行の奈須野会長に県Pのほうはすっかりお願いしてしまったので、詳しくは奈須野会長さんからお話をしていただくといいのかなと思いますけれども、山形の武田会長や、山形からの支援物資、子どもたちの本とか、たくさんトラックで運んで支援をしていただいたり、もちろん日本全国からも支援をしていただいて、そういう意味では常日頃の顔を突き合わせたつき合いをしているということが、すごく生きてくるんだというのを身をもって感じました。

ただ、そんな事情もあって私はほとんど県Pに顔を出すことができなかったので、ほかに被災していた沿岸部の会員の方とか、役員の方になかなか顔出しできなかったのが非常に申しわけなかったという思いがあり、このときばかりは公務員であるということが恨めしく思ったことを覚えています。

〇菊田 日P大会の第三期までの実行委員会があったというのは、実は今初めて知って、引き継ぎながらブラッシュアップしてきたことがわかりました。それととある分科会のお話ですが、そこに苦労した分が報われるような流れになったというのがよくわかるお話でした。そして、東日本大震災が三月十一日に起こったわけですけれども、その直後の会長ということで、その辺のお話を中心にまた奈須野会長のほうからお願いしたいと思います。

〇奈須野 小平会長がおっしゃったように、小平会長も被災者であり、公務員ということで、本当に三月十一日以降から会長としての仕事がなかなか難しくなっていました。そのときに私が代行というか、会長のかわりをやったわけですが、正直言って、未曽有の大震災なので、すぐにどうこうできるような状況ではありませんでした。

それで、混沌とした中、非常に世間というか社会の全てが狂っている状況だったので、PTA自体も機能できていなかったとうのが現実だったと思うのですが、その中で小平会長から代議員会を経て私に会長が替わった訳です。その代議員会において小平会長のごあいさつがたしか、「大変なときだけれども、みんなで力を合わせることが本当に大切なんだ」ということを涙ながらに語っていらっしゃっいました。そのときに思ったのは、その前段、会長代行をやっていたときに、特に半月、一カ月と、時間がたてばたつほど、各地からいろんな支援物資が届いてきて、正直に言うと対応しきれなかったというのが実際でした。仙台市Pはどんどん支援物資を受け入れ、体育館などをいっぱいにするほど受け入れ、それを被災者に配っていたという動きがあって、自分たちはどうしたらいいのかなと、これをやっぱりうけるべきかとすごく思ったんですが、そのとき副会長であった、健司会長とか高城会長とかに相談して、いや、我々は動かない方がいいのではないだろうか。もし動いていろんなものを受け入れたとして、それを配るにも配り切れないし、そういった力もありませんでした。宮城県総被災者という感覚が私にあったので、義援金はいただきましたけれども、人手がかかるということもあって、ある程度のところの支援物資は断りました。

それが非常に自分の中にあって、「何か自分たちに力がないな」と思いながら、代議員会を迎えて、小平会長の言葉を受けて、会長になったときに、「あれ、ちょっと待てよ。やっぱりやれることはあるな」と、ちょっと気づいたんです。そこから始まったのが、より平常に戻していこうということ、みんなが平常に戻るための努力をPTAからやっていこうということでした。七月の単P会長会も本来であればまだまだ開催なんかできないような状況で、会場の松島大観荘も自衛隊が泊まり、部屋に洗濯物を干しているようなところで、単P会長会をやれる状況ではありませんでしたが、実施しました。全体的な参加人数は少なかったのですが、そのときに生の声というか、震災から四ヶ月が経っても本当にまだまだ大変なんだ、子どもたちが運動する場所もないんだ、ということを言われたんですね。

PTAとして何ができるだろう、次にどういうことをしようかと思って、教育委員会に相談をしても、やっぱり非常に大変な状況だったので、なかなかうまくいかないというか、動いてはもらえませんでした。それでも子どもたちが通常に戻るために、我々ができることをと考え、当時事務局長だった江刺先生も被災者だったのですが、その中において、一生懸命すごい段取りよくいろんな地域と連携していただいて、情報交換しながら運営したのを思い出します。

その年は、県P大会を中止したので、そのかわりに復興会議というのをやろうということになりました。加美町を会場に、いただいていた支援物資を配ることを目的に多くの会員に参加していただいたことを思い出します。

それと並行して、日Pでは義援金のとりまとめが始まっていまして、「被災地の青森、岩手、宮城、仙台、福島の四県一市に対して現金を配りましょう」ということでした。いただいた一回目のお金は単P全学校ヘ一律に配りました。それはやっぱり発災して県全体がもう被災したという感覚のもとに配ったのを思い出します。

その効果として、次に出てくる地区同士の、東日本大震災の交流事業というものが始まりました。各地区間同士をパートナーにして、その地区間同士の交流を積極的にやってくださいというのを、被災二年目以降は県Pの予算を使ってやれたので良かったと思いますし、それがいまだに続いているということは、本当にPTAの底力であって、きずなであるなというふうに実感しています。

とにかく、一生懸命みんなで笑顔でいましょうと、そのとき私がPTAのトップだったわけですが、トップというのはなかなか重々しいですけれども、とにかく私が笑顔で会員の皆さんを勇気づけるようにしたことを思い出します。

とりとめのない話ですが、大きな災害を受けて宮城県PTA連合会は、いろんな地区同士がこれまでの活動を見直しながら、交流であったり、子どもたちを大切にするということをあらためて共通に感じた、大きな出来事だったというふうに思っています。

〇菊田 私も東日本大震災の平成二十三年から県Pの理事として携わらせていただいたわけですけれども、今お話を聞いて、その当時の単P会長会のことを思い出します。

被災した気仙沼の中学校の会長でしたか、やっぱり被災者の人たちと生徒がなかなかうまくいかない部分があるということで、それをどうしたらいいんでしょうというお話をされていたのを、今話を聞きながら思い出しました。とにかく地元でもやれることをやろうということで、教育委員会との意見交換をしたのを覚えています。今でもそれは続いていますし、それから奈須野会長が言った東日本大震災の交流事業も、継続してやっておりますので、日Pみやぎ大会以降行なっている出前懇談会の中でも、交流事業をどんどん使ってくださいという話もさせていただいている状況です。

ということで、東日本大震災から一年目・二年目、三年目といくうちにまた新たな課題が出てきて、いじめという問題が大きく出てきたところに、佐々木会長のしてきた「いじめゼロ」というテーマのもと、みんなでポスターを作成したりしました。その辺の「いじめゼロ」を中心としたお話を、佐々木会長のほうからよろしくお願いします。

〇佐々木 私も東日本大震災の発災時は、奈須野会長、小平会長とともに県P役員として活動しておりましたので、子どもたちのフォローというところにつかなければいけない状況にありました。大震災が原因の一つになっているかもしれないというふうに言われましたけれども、不登校といじめということで、非常に大きな社会問題にもなっておりました。

ある意味私がやったというよりは、奈須野会長からの引き継ぎ事項をどういう形にして活動に振り向けたらいいかなということを考えながらやった一年だったと今になって思います。

当時、滋賀県の大津においていじめが原因と思われる自殺があり、それから仙台でも発生しました。実は大津の問題が出たときには、地元小学校の単P会長でして、直後に緊急集会を聞いて、まずPTA会員とともに、その状況をきちっと共有し、どういうことが今実際に起きているのかを共有しました。そこがいじめへの関心といいますか、PTAとして取り組むことがあるのではないかというふうに考えたのは確かでした。

実際に自分が県P連の会長になって、この問題をどういうふうにして各単Pに発信していくかと考えたとき、県P連会長は、日Pの全国会長会でいろんな情報を得る機会がありまして、私が所属した委員会に福岡県P会長の西村澄子さんが担当副会長でおり、「今宮城県はこういう状況です」と相談したら、西村会長から「福岡市ではこのような事業があるんですよ」と言って出されたのが、いじめチェックリストでした。それを拝見して、自分の中で原因って何だろうと思ったときに、常に子どもを見ているはずの保護者たちが、子どもの変化に気づいていたら、命を落とすことはなかったのではないか、子どもからのシグナルを見落としていたのかもしれないということを感じ、それをヒントに宮城県の全保護者に見ていただけるような、宮城県版をつくろうといって始めたのがチェックリストでした。紙面に印字して配布するとともに、県P連のホームぺージからダウンロードして使えるようにしました。家庭でチェックできるように、また家庭の中で考えるきっかけづくりもできたのかなと思っています。

さらに、周りの大人は「真剣にいじめをゼロにすると思っているぞ」と、それが子どもに対する発信だという想いを、子どもたちに伝えるべきと考え、あえて当時の役員全員の顔が出るポスターを作成して、各学校に配布をさせていただき、啓蒙ポスターとして掲示をさせていただきました。とはいえ、もちろんそれが全ての解決につながるわけではなくて、あくまでもきっかけや、気づきの部分を与えることが県P連として、我々の仕事であって、県P連についてこいということでは決してないと思います。そういった意味で、ポスターにしてもチェックリストにしても、大人の本気を出すということと、皆さんと一緒にこの問題を解決していくという姿勢を示すことができたと思うし、これからもそういう姿勢は必要であろうと思います。

県P連の役員当時に、一貫して思っていたことがあります。平成十六年度からお世話になりましたが、当時は食育がいわれていたときで、食育って家庭内の教育がなにより大事であり、関心を高める必要性を改めて学びました。その後、健全育成委員長に就任したときも、家庭での教育、子どもに対する教育、保護者の皆さんとの連携について、もっと意識を高めなければいけないなと思っていました。その中でのいじめ問題だったものですから、県P連として何を発信すべきかを、明確にしていかなければいけないという思いもありました。現役の方はもちろんですけれども、次の方々にも思いを引き継いでいって、それぞれが活動を展開していかなければ、なかなかいじめゼロというのは難しいかもしれません。ですが、ゼロに近づけていくことは単Pの活動を通してできるのではないかなと思っておりました。

一年間でできる範囲は決まっていましたが、歴代の会長と一緒に活動することによって気づいたところを、次の高城会長に引き継ぐことができたのかなという思いもありましたので、そういう意味でも本当にありがたい県P連の活動期間だったと改めて思っているところであります。

〇菊田 東日本大震災の震災復興期間にありながらも、不登校、いじめという社会問題もあって、取り組んで来たということであります。実は先日、白石・刈田地区で出前懇談会をやった際に、「県Pとしていじめゼロへの取り組みを本当にやっているのか」というお話を、いただきました。去年十一月二十日に県の教育長と連名で根絶に向けたアピールはさせていただいたものの、なかなか届かないというか、まだ活動が足りないのかなと思った次第ですので、今のお話を聞いてまた改めてできることを最大限にやらなければならないなと思っております。

ということで、次は高城会長からいじめもそうですけれども、東北P旦理・山元大会を中心にお話していただければと思います。

〇高城 亘理・山元大会ですけれども、実際、開催年の三年前、ぐらいから準備は始まっていました。もちろん、直接の被災地の方々でしたので、「本当にできるのか、できるわけねえべ」というような意見が大半でした。

大きな会場もないような状況でも、七分科会を開催し、そして全体会においては地区内では開催できず、名取の施設を全体会の会場にするというような、今までにない形で開催をさせていただきました。

県Pもそうですけれども、地元の実行委員会の方々がこれまで全国の皆さんから受けた支援に対して、何かの形で感謝の意を表したいという思いとともに、これまで自分たちは、このような形で子どもたちも含めて残してきたというところを見せたいという思いが強かったことが結果として実を結んだと思っております。

一番被災が大きかった荒浜の中学校か小学校かちょっと忘れましたけれども、それの防災教育というような形で、逆にすごい痛ましいことでしたけれども、この東日本大震災を乗り越えるために、どのような活動をして、いかに子どもたちの力が必要だったかということを皆さんにお示しすることができた、意義深い大会になったのかなと思っています。

なかなか準備が進まないという部分もありましたけれども、結果的には全体会も、震災一辺倒ではない、お話もできましたし、意義深い大会にすることができたのかなと思っております。

一番大きかったのはその地域の、ゼロよりもマイナスのところから積み上げてきたというPTAの皆さんの力の結束、きずなというところも大きく強めることができた大会ではないかなと思っております。

県P大会においても、研究大会を開催することが目的ではなくて、あくまでもその準備に当たって、地元の方々が結束を強めていくことが大事なんじゃないかなと思っておりましたので、特に亘理・山元大会ではそれが成功したと思っております。

〇菊田 私も亘理・山元大会については、今考えてもよく開催できたなというか、もし、気仙沼にその当時話が来たら、無理だったんじゃないかという思いがありますけれども、開催した亘理・山元の皆さんの地元の結束というのはすごく強かったなと思いますし、その後の結束というのもやっばり強くなっていっているなというのは、感じているところです。

「PTA活性化のために」

それでは、続きまして、「PTA活性化のために」ということで先輩からの提言となっております。また順にお話をいただきたいと思います。

〇高橋 PTAって何なのかなという話がよく出るのですが、PTAとは社会教育団体だということを忘れないでほしいのです。私も会長時代によく「PTAって何なんですか」とか「どういう活動をすればいいんですか」といろんな会長さん方から質問されましたが「社会教育団体なんですよ」と、「そこを意識していくと活動が見えてきますよ」という話をしました。

どういうことかというと、PTAは各学校で組織した保護者と先生方による団体で、自分の子どもがお世話になっている学校と子どもたちのためにボランティア活動を行っていく団体ということです。

子どもたちを取り巻く環境というのは、毎年変わっていきます。そのことを考えて、PTAとして研修会を企画したり、教育行政機関とかいろんな団体で開催している研修会に行って、そういったことを学んできて、それを会員の方に報告したり周知するというような「学びの場」としてぜひPTA活動を行ってほしいと考えています。

子どもが取り持つご縁で、たくさんの保護者や先生と出会います。子どもたちのために行動していますが、やがて子どもが卒業したときに自分もPTAを卒業します。そのときに振り返ってみて、「自分も一回り成長したな」と感じられるようなPTA活動を展開してほしいと思っています。

〇菊田 子どもたちの健全育成のために手段として大人の学びだったり、学校との連携協働というのが大事だというお話をいただいたなと思っております。

〇小平 どうして自分がPTA活動をするようになったかということを考えると、中学校の時にお世話になった親の会の役員をされていた方の存在があったと思います。その人はもう日常の部活動の世話だけじゃなくて、季節ごとにイベントを企画して、親の人たちを連れてきて、正月は餅つきをやったり、秋には芋煮会の企画をやってくれたりとか、そうやって支えてくれて、世話になったというような記憶がどこかにあって、大人になったときに多少は思返しをしようかなということだったんだなというのを、あるとき気づいたことがあります。

結構みんな忙しい中で、時間をつくるというのも手間だと思いますけれども、それを手間と思わないで、将来の子どもたちの財産になるんだと思って、活動を続けていくということが大事なんじゃないのかなと思いました。

それから、何でおまえがやっているんだというふうになかなか自分を理解してもらえないというところが、当然最初の入り口のところはあるんだと思いますが、自分自身も県Pがどういう団体なのかということが実は単Pの頃には全然わからなかったりもしました。とにかく社会教育団体なので、お互いがお互いを勉強するというか、そういう関係をつくるということが大事なんじゃないのかなと思います。

〇菊田 当時の大人の方、PTAの方なんでしょうか、いろんな企画をしてくれて、部活動のお世話をしたということでは、我々も役員として、思っていることですが、子どもに大人の背中を見せられているかなということがあると思います。やっぱりそうやって見ている子どもたちもいるというところでは、また我々の今後の活動というか、やりがいを感じさせられるようなお話だったなと思っております。

〇奈須野 会長が終わったその年に縁があって、宮城県教育委員会のほうで教育委員として仕事をさせていただくようになったとき、愕然としたのが、県の事業計画にPTAという文字が一つも入つてなかったことです。PTAって教育委員会で余り気にしていないんだなと思いながら、PTAとの連携について質問していくうちに、去年から文字が出てくるようになりました。今、子どもたちを取り巻く環境がこんなに大変な時期に、PTAが果す役目は非常に重要だと思っています。

PTA不要論というものもありますが、私は絶対PTAが必要だと思っておりますし、宮城県の教育委員会の中でもPTAは絶対必要だという認識であります。その上で、PTAがこれからやっていくことというのは、家庭教育を見直し、一人一人の会員が家挺教育を真剣に考えることだと思います。そしてぺアレンツ・ティーチャー・アソシエーション、このティーチャーというところにも、もう一度目を向ける時期に来ているのではないかと思います。

子どもたちにより良い環境の中で勉強であったり、学校での団体活動というものを指導提供するにあたって、教員の力というのは非常に大きいものがあります。教師の多忙など、学校現場の見直しというか、そこへの提言一であったり、協力できるPTA連合会になってほしいなと今は切に思っております。

〇菊田 PTAの役割というのは、改めてそれぞれの単P会員も含めて認識していかなければならないと思っていますし、今後のコミュニティースクールとか、そういった地域と連携したような形を進めるに当たって、PTAの役割ってやっぱり大きいと感じております。そしてPTAからまた地域に広がっていく。少子高齢化に向かう中で地域ということを考えるときに、PTAなしでは考えられないと私も思っておりました。

〇佐々木 学校と家庭と行政と地域が連携して子どもを育てようとしたとき、まず初めに、この地域の子どもなんだと確認から入ると思うんです。この子はどこの家の子だとわかると、安心感が生まれ、声をかける近しさを感じてもらえると思うんですが、現在では子どもに対して気軽に声をかけづらくなっている。それをかえる努力をPTAが担うべきではないかと思います。

私はPTA会長をやってくれと言われたとき、これは公言して何度も言ってきたことですが、「皆さんの子どもたちのために引き受けます。」と必ず言います。『ただし、私の子どもが皆さんの目の前で何か危険なこと、大きな事故につながるようなことになっていたら必ず助けてください。それであれば私は会長を受けます。」と言ってきました。要は、地域で支えるということは、保護者が積極的に子どもたちと一緒に地域に出ることが必要で、地域と一緒に活動することが大切なんです。例えば『あんだ賢ちゃんちの息子だべ」とか「賢ちゃんちの何々ちゃんだよな」というふうに声をかけてもらうと、子どもも保護者も「地域の人に認めてもらっているな。この人たちに育てていただいているな」という思いが生まれ安心感を得られるものだと思うのです。

PTAに入って得するのか、どうなのかというのは、自分の活動にどうつなげていくかです。私は何度も言ってきましたが、PTAは一つの手段であって、うまく活用していけば子どもの健全育成につながり子育ての役に立っと思っています。決してマイナスになることはないと思います。

〇菊田 我々の時代は「どこぞれの孫だべ』とか、じいちゃんとか親父の名前を呼ばれてよく認知をしてもらったというか、自分がランドセルを背負っている当時を思い出すと、本当に大事なお話だったなと思います。

〇高城 本当に子どもたちがいるときしか経験できないことですし、その義務教育なり、宮城県の場合は六年間プラス三年という九年間の聞だけできる自分の経験として生かせるこの活動を、何でもったいないことをしているのかなということであります。

親父の会は前々からありましたけれども、私はここ何年かの問でクローズアップされてきたのかなと思っておりまして、お父さん方、お母さん方が忙しい中でもやっている活動を通して、子どもたちに背中を見せられればいいと思っております。

「結び」

菊田 皆さんから日Pみやぎ大会を初め、それぞれのテーマについて、『PTA活性化のために」という項目についてのお話をいただきました。

みやぎ大会のお話では、やはり全国大会を開催するというのは小さなピンチの連続だったけれども、そこを宮城県内の会員が書き損じや未使用のはがきを集めたり、一人五十円ずつ協力金をしたりしながら資金不足を補ってきたことの話しから、そういう一人一人の会員が結束すると、大きな力になるんだなというふうに感じました。

各大会に出席の際には、被災地から行っているということで、被災地の状況を少しでもお伝えしながら、情報をまた持ち帰ろうという思いでやってまいりました。江刺先生も当時被災されて家族を亡くされたというお話もお聞きしておりましたが、そうして活動してきました。

最初の義援金をいただいたときには、当時南気仙沼小学校が被災して、統合するときでして、解散会で子どもたちにケーキを出して、振る舞うことができました。私もそこで御礼を言われたんですけれども、そういうこともやれる資金になったということでは、非常に義援金の使い方というか、良かったのかなと思っております。

いじめの社会問題ということでは、今の佐々木会長の思い、奈須野会長の思いを改めてうかがい、ここにしっかりとゼロに向けた取り組みをやっていかなければならないなと思うのと、それから会員が年々変わるというところでは、多分、毎年同じことを叫んでもいいんだろうと思っておりますので、その辺も改めて勉強させていただきました。

また、高城会一長の亘理・山元大会のお話については、私も高城会長のかわりに分科会でごあいさつなどをさせていただきましたけれども、手づくり感の中にも、中身が重要だったとの再認識させられるお話でした。この場所でやらなきゃならないということではなくて、どこかの公民館のちょっとにおいそうな垂れ幕のところで、そこの地区の会員の皆さんが一生懸命つくしてやってきたというところで、最後に当時の小野実行委員長が、現県P副会長ですけれども、男泣きしたのを覚えています。

〇菊田 ということで、この場は締めさせていただきたいと思います。本日はまことにありがとうございました。